下野達也/読響(2011/1/22)
2011年1月22日(土)18:00
サントリーホール
指揮:下野竜也
読売日本交響楽団《第500回記念定期演奏会》
テノール:吉田浩之
合唱:新国立劇場合唱団
合唱指揮:冨平恭平
池辺晋一郎:多年生のプレリュード - オーケストラのために
(2010年度読売日響委嘱作品、世界初演)
リスト:ファウスト交響曲
この日は17:40開始のプレートーク、終演10分後からのアフタートーク終了が21:15と盛りだくさん。
私も、土曜日で余裕があったので、全て聴かせていただきました。
池辺晋一郎の新作は、プレトークで作曲者自身が「20世紀の音楽が“心”から“頭”に移って難しくなってしまったのを、21世紀は再び“心”に戻そうと思った」語っていたように、耳あたりの良い曲。
NHKの大河ドラマのテーマ曲のよう…と言ったら失礼かもしれませんが、わかりやすさは悪いことではありません。
プログラム冊子によれば、「越冬で地表に現れている部分が枯死しても、茎葉や根は生き続け、翌年再び萌芽して成長し、開花する植物が「多年生植物」とのこと。
作曲者自身「ひと言で言うなら“上へ上へ”という音楽」とい語っています。
尾高賞の対象になるような傑作かどうかはともかく、500回記念を祝うための音楽としては、ふさわしいテーマであり、良かったのではないでしょうか。
休憩後のファウスト交響曲のは、私が生で聴くのは30年ぶり。
前回は、1981年のサヴァリッシュ指揮のN響の演奏。
東京文化会館で聴きました。
NHK-FMでも生中継されました。
新聞か雑誌で音楽評論家の先生が「感謝はしたけど感動はしなかった」という辛辣な文章を書いていたのを懐かしく思い出します。
30年前とは言え、それくらい、とらえどころが難しい面のある曲であることは事実なのでしょう。
私も、LPで聴いていたバーンスタイン指揮の演奏をCDで買い直したりして、ときどき聴き直してきましたが、「とらえどころが難しい」という印象は持続していたものの、後の作曲家による、もっと複雑で多様な面を持った曲も数多く聴いたこともあり、以前ほど「得体の知れないもの」ということをあまり感じなくなったように思います。
ラトル指揮のCDなど、もう曲に引きずられるところなど無く、曲を見事にコントロールした力強い演奏でした。
この日の下野さんの演奏も、後の作曲家(マーラー、シェーンベルク、スクリャービン、ショスタコーヴィチなどなど)の先駆者としてのリストとして、純粋に、安心して楽しむことが出来ました。
どちらかというと、クリアーな音でスタイリッシュにまとめ上げた印象。
下野さんらしく、鳴らすところは全力で鳴らしていましたが、全般に、純度高く昇華した純音楽的ように感じました。
1969年生まれで21世紀に生きる下野さんと、21世紀のオーケストラである読響にとって、この曲は、もう、手強い相手などではなく、マーラーと同じようにレベルの高い演奏で表現できる対象だったことでしょう。
私たち聴衆も、演奏者の苦労の跡など感じない方が良いに決まっているので、本当に音楽そのものを楽しむことが出来ました。
特に、第2楽章は「ああ、こんなに美しい曲だったんだ…」と再認識。
最後の合唱が、マーラーの交響曲第8番の最後と同じ歌詞で歌われたときに、底知れぬ神秘感と高揚感は、マーラーの交響曲に興奮しているときに近い体感。
本当に幸せなひとときでした。
この日の合唱は、第3楽章の演奏中に、しずしずと入場。
新国立劇場合唱団の高レベルはいつも通り期待を裏切りません。
独唱者はP席後方での歌唱。
テノールの吉田さんも、張りのある伸びやかな声で会場を圧倒しました。
終演10分後に始まったアフタートークは盛りだくさんの内容でしたが
「全国民の中ではマイノリティーかもしれないが、“聴きたいと思ったときに、そこにある”ということが重要」
という存在理由や、
「名曲シリーズで珍しい曲を取り上げてひんしゅくをかっているが、“有名曲シリーズではなく、名曲シリーズでしょ”と開き直っています」
という下野さんの発言など、非常に面白く聴かせていただきました。
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