レクチャー

2012年7月 1日 (日)

『オペラの「演出」をどう読むか』(2012/5/26~6/23)

2012年5月26日(土)10:30
2012年6月2日(土)10:30
2012年6月9日(土)10:30
2012年6月16日(土)10:30
2012年6月23日(土)10:30

中央大学駿河台記念館

講師:
森岡実穂(中央大学経済学部准教授)
山崎太郎(東京工業大学教授)

中央大学クレセント・アカデミー
オペラの「演出」をどう読むか

少し前の話しですが、中央大学のオープンカレッジ「クレセントアカデミー」で、オペラの演出についての講座を聴講しました。
毎週土曜日で、全5回連続で、10:30-12:00という時間設定は、午後の公演に行けるように配慮されたとのことです。
これが受講の決め手となりました。
仮にそうでなく、例えば土曜日の午後とかの設定だったら、受講しなかった可能性の方がが高いです。
もっとも、土曜日の午前中はチケット発売日が多いので、早めに教室に行って、モバイル端末でチケットを予約する行為を毎回のようにやっていましたが。

それはともかく、森岡先生も山崎先生も、例えばクラシックジャーナル046「オペラ演出家ペーター・コンヴィチュニー」などに執筆されていて、その文章も非常に興味深い。
しかし、直に語られる言葉を拝聴するときのお話しの興味深さは、印刷物の比ではありません。
CDと生演奏の違いに匹敵する、生の講義の面白さでした。

まず、初日に森岡先生は、
「自分に見えているものと見えていないものを自覚することも大切です。
私は宗教的視点からはあまり語れません。」
とおっしゃいました。
これで私は、一気に「あ、先生は信用できる!」と思いました。
「私の理論は万能!」ではなく、いろいろな見方があるということです。
ちなみに、森岡先生はジェンダー論(生物学的な性ではなく、役割や“~らしさ”としての男性、女性)などからの切り口を専門とされているようです。

受講して得たことはとても全ては書けませんが、印象に残ったことを少々。

初回は、
「どんな作品、どんな演出でも、作者や演出家が“こうとらえた”という視点で切り取ったものに過ぎません。」
「自分はこう思ったから、人に伝えたいということが“表現”です。」
「その時代の“新しい視点”を加えることが再現芸術には必要不可欠です。」
など。
初日の題材は「蝶々夫人」と「トスカ」。
「“蝶々夫人”では、演出家の視点は、“この作品にどんな悲しみを見つけられるか?”ということで読み替え演出が可能になります。」
「トスカ」では、第1幕最後の合唱が入ってくる場面でスカルピアの一瞬見せる神への畏れ(台本にも明記されているそうです)の様々な演出、演技。

第2回は「魔笛」を題材にして啓蒙主義の時代のお話し。
世界史はあまり得意ではなかったので「なるほど、そうだったのか!」と目から鱗が落ちる思いでした。
ちなみに、何十年も前に、大学1年生の教養課程で、日本史の授業を受けたときの感動を思い出しました。
詳細はもう忘れましたが、例えば太閤検地を論じる切り口に「これが大学の日本史か!高校の日本史とは別物!これが学問というものか!」と驚嘆しました。

3回目は「蝶々夫人」に戻って、西洋人から見た“オリエンタル(東洋的)”の視点。
政治的必然性(植民地の正当化)から生まれた“劣者を父親のように支配しようとする”視点。
「それぞれの作品には“この演出はどういう方向で行くのか”を決めなければならない場面があります。
“蝶々夫人”にはそういう場面が多いと思います。
現代で虐げられている者(貧困層など)への読み替えも、そこから生まれます。」
など。

3回目までは森岡先生の講義でしたが、4回目は山崎先生の講義。
ドラマとは?
ドラマティックとは?
「劇場には、時間的制約、空間的制約があります。
したがって、劇には、あまり多くの物事を詰め込むことができません。
低級な劇は、単なるエピソードの羅列だと言われています。
(そうならないように)ある特別な一日を切り取り、緊張が臨界点に高まった場面から開始する手法がとられます。
開始後は、前進型ドラマと遡及型ドラマがあります。
「舞台でのアクションには限界があります。
例えば戦闘シーン。
映画なら可能ですが、舞台上では限界があります。
そういう場面は、劇では、“語り”で観客の想像力に働きかける方法をとります。
例えば、使者の報告、壁越しに見ている者の語り。
叙事的語りは劇に不可欠な要素です。」
など。

これは、黛敏郎のオペラ「古事記」で、八岐大蛇(やまたのおろち)の退治の場面が群衆(合唱)による語りで歌われたことを思い出しました。

第4回では「魔笛」の解釈の歴史も。
「啓蒙主義、文明社会を絶対視することへの疑念。」
「ザラストロと夜の女王の価値観の対立は、単純な善悪の図式で割り切れない、世界の多様性そのものという見方も出来ます。
矛盾は矛盾のまま存在する現実の世界を描き出したものと言えるかもしれません。」

最終回は、森岡先生、山崎太郎先生のお二人で交互に登壇。
受講生からのコメントも求めて終了。
プロの演出家の方もお二方聴講されていたことを知りました。

毎回“視野が広がる快感”を覚えた講義でした。
毎週土曜日の講義の受講、連続5回を、私の個人的スケジュールに組み入れるのは少々タイトな時期だったのですが、受講して本当に良かった!と思いました。

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2012年6月30日 (土)

「アリベルト・ライマンと現代オペラの潮流」(2012/6/30)

2012年6月30日(土)14:00
日本生命日比谷ビル7階大会議室

シンポジウム
「アリベルト・ライマンと現代オペラの潮流」

(日生劇場開場50周年記念事業ライマン・プロジェクト)

司会:長木誠司 (音楽学・音楽評論)
パネリスト:
片山杜秀(音楽評論家)
下野竜也(指揮者)
高橋宣也(慶應義塾大学文学部准教授)
野平一郎(作曲家・ピアニスト)
高島勲(日生劇場芸術参与)

無料のイベントですが、内容はお金を払っても良いくらい充実。
その上、「メデア」の公演プログラム引換券もいただきました。

いや、この引換券目当てを目的とする気持ちが半分くらいはあったことは事実です。
こんなウマイ話しが、世の中に…。

最初に司会の方だったかな?
「現代音楽ファンとオペラファンは層が一致しません。
現代音楽とオペラの両方のファンが一堂に会する希少な機会です。」
というようなことをおっしゃって、パネリストが順番に、日生劇場でライマンのオペラを上演する意義をスピーチ。

片山さん:
「日生劇場は1963年10月開場です。
関西が地盤だった日本生命が、関東進出に際し、劇場を建てて存在感をアピールしようという趣旨だったようです。
したがって、“もしものことがあったときに、子供のために…”の生命保険会社らしく、子供向けの劇場というのが最初のコンセプトだったらしいです。
しかし、こけら落としがベルリン・ドイツ・オペラになって、設計した方?は驚いたそうです。」
など。

高橋さん:
「“メデア”の台本のグリツパルツァー氏は、“メデア”単独では不十分で、そこに至るまでの過程をさかのぼる必要があると考え、“金羊皮”という三部作としました。
第1部が“賓客”、第2部が“アルボーの船人”、そして第3部が“メデア”です。」
など。

野平さん:
「20世紀初頭は作曲家がオペラと違う方向で演劇的音楽表現を模索しました。
しかし1970年代あたりから作曲家が歌劇場に戻ってきています。
ちょうど作曲家がオクターブが書けない時代の後、書いても良い時代になったのと図式が似ています。
ライマン氏は、最初のオペラ作品は1000席程度のキール歌劇場でしたが、出世作の“リア”で、一般聴衆のためのの普通のオペラハウス、バイエルン国立歌劇場のために作曲したことが大きかったと思います。
オペラは、オペラ劇場の空間で、最後まで聴衆の緊張感を保つ必要があります。
劇場の大空間を、音で埋めなければなりません。」
など。

下野さん:
「“メデア”は、明確なビート(拍子)がほとんど感じられません。
これが緊張感の持続に貢献しています。
5月の読響定期でライマンの小品を演奏しましたが、リハーサルのとき、楽団員の皆さんの反応は、最初は“なんじゃこりゃ”でした。
しかし、リハーサルが進むと“いいね”に変わりました。
ライマン氏のスコアには、アレグロとか、アンダンテとか速度を表す言葉が書いてありません。
書いてあるのは、メトロノームでいくつという数字です。
しかし、日生劇場の空間に合ったテンポを探すのも指揮者の仕事だと思います。
R.シュトラウスがショルティにアドバイスした言葉は凄いです。
“テンポの決め方は?”(ショルティ)
“リブレットを読めば良い”(R.シュトラウス)
ライマン氏が音に与える“長さ”にも注目です。
言葉を伸ばすのは、女の人がキレるときによく使います。
“あなた、これ、どーゆーことーーーぉ?”
この作品は、オーケストラが79人です。
日生劇場のピットは、50人近くの弦楽器奏者でいっぱいです。
そこで、管楽器はステージ上で舞台を囲うように配置することにしました。
ちょうどコロシアムの雰囲気になります。
しかも、このオーケストラは、全員が一緒に鳴ることはありません。
ピットだけでは味わえないサラウンド効果をお届けできると思います。」
など。

休憩後は、休憩時間に提出された質問用紙への回答。

日生劇場で現代オペラを上演する意義は?

「欧州で、作曲家がオペラハウスに戻ってきている状況を日本ではあまり体験できていません。」(長木さん)
「オペラは音楽、演劇、バレエ、絵画などを含んだ、その時代の総合芸術でした。
現代はそれを、過去の作品の新しい演出だけで楽しんでいmすが、新しい作品で楽しんでも良いはずです。」(片山さん)
「“オペラは死にかけている芸術だ”と言っていたブーレーズが、(実現は厳しいかもしれませんが)2015年にスカラ座で新作上演の契約を結んでいます。
作曲家にとっては“どう受け止められるか?”というチャレンジです。
現代の表現として、作曲家がうったえるものを楽しんでいただきたいと思います。」(野平さん)
「この作品に限らず、現代オペラは暗い題材が多いです。
オペラは現代社会を映しているとも言えます。」(長木さん)
「過去の作品を演奏するようになったのは、メンデルスゾーンあたりからと言われています。
それまでは、常に新作の上演でした。
現代は、過去の作品の消化と、生まれてくる作品の上演とのバランスが取れていないいびつな状態とも言えます。
200年後の私たちの子孫が、ライマン氏の作品をどう感じるか?と思います。
しかし、現代の作曲家が、200年後の人類だけを相手にして、現代の聴衆を無視しているとは思えません。
20世紀音楽は突然変異のように現れたと思われていますが、ワーグナーにもドビュッシーにも兆しはありました。
本当は、連続変化しているのです。
第1次世界大戦と、第2次世界大戦による情報の欠落が、突然変異の印象を与えているのかもしれません。
私たち演奏する側が、例えばツェムリンスキーをもっと演奏するなどして、間を埋めることをすれば、理解が深まるかもしれません。」(下野さん)
posted at 17:52:50
「現代オペラは、一時期、音楽が複雑な上に、ストーリーも複雑で、演出も複雑で、聴衆の理解力を超えてしまった時期がありました。
ライマン氏は、音楽的要素を少し引き算して、演技や演出などの視覚効果やストーリーと合わせてちょうど良い作品にしたのが成功要因ではないかと思います。」(片山氏)

ライマン氏への委嘱は検討しなかったのか?

「委嘱の費用は、予算的に無理です。
上演にかかる費用に占める入場料収入の割合は、ドイツでも、うまくいっている劇場で20%台、イタリアの大半の劇場は10%未満です。
新国立劇場は25%くらいで、これはかなり優秀な部類です。」(長木さん)
「過去の日生劇場での新作上演は、全て他の団体の委嘱による共同制作でした。
一作だけ委嘱した、三島由紀夫台本、黛敏郎作曲のオペラで、作曲が間に合わず、スケジュールに穴が空いたというトラウマもあるかもしれません。
(子供向けミュージカルの委嘱はたくさん行われています。)
むしろ、日本人だけでライマン氏のオペラを上演することに意義があると思います。」(片山さん)

歌手は本当に暗譜しているのか?:

「スコアと上演映像を対比して聴くと、歌手はかなりの高効率で音符を音にして歌っています。
もちろん生の上演ですので完璧はあり得ず、多少の音の欠落は出ています。
ライマン氏くらいになると、そんなことは織り込み済み(想定内)で書いていると思います。」(野平氏)
「歌手だけで歌うと大丈夫なのに、オーケストラが微妙に違うことをする箇所があるので、歌手の皆さんにはお気の毒な(難しい)曲です。(下野さん)」

最後の方で高島さんが、ライマン氏がインタビューで語ったこととして
「異邦人として来て、その土地に馴染もうとするが、うまくいかないというのは、今のヨーロッパにも当てはまります。“メデア”は決して過去の作品ではありません。」
と。

途中、作曲のライマン氏、ライマン氏に「リア」のオペラ化を提案したフィッシャー=ディースカウ氏のインタビュー映像や、「メデア」と「リア」の(たぶん欧州での)上演舞台映像の映写あり。

14:00開始で16:50頃に終了。
パネリストの皆さんは、まだまだ話したそうでしたが、拝聴して私がメモした量はすでに盛りだくさん。
下野さんと野平さん、音楽評論家の片山さんは、普段聴衆に近い側に居るだけあって、つかみの話術も巧みだと、改めて感心しました。

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2011年6月 3日 (金)

飯守泰次郎(レクチャー)(2011/6/3)

2011年6月3日(金)19:00
森下文化センター・2階多目的ホール

飯守泰次郎による
チャイコフスキー・レクチャー

(主催:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団)

飯守泰次郎ピアノ・リサイタル…ではなくて、…でも、それに近かったかも…。

今シーズンの東京シティ・フィルは、飯守泰次郎さんの指揮でチャイコフスキー交響曲全曲を演奏。
それに先だって、飯守泰次郎によるレクチャーが開催されました。

最初、チャイコフスキーの生涯、ロシアの過酷な歴史などについてお話しされました。
「チャイコフスキーは表面的な美しさや、外面的な派手さが強調されがちですけど、実はもっと複雑で、一貫した深い絶望が秘められています。ロシアの気候、風土、過酷な歴史、チャイコフスキー自身の母親を亡くした経験などが背景にあると思います。」
「皆さん、このチャイコフスキーの肖像の目を見て下さい。この目は絶望ですよ。ベートーヴェンの目とは全然違いますよ。」
「ワーグナーを4時間指揮しても全然平気で、もう一回やってもよいくらいなのですが、チャイコフスキーを指揮すると、心臓はバクバク、息はゼーゼー。舞台の袖でマネージャが心配するほどです。それくらい、チャイコフスキーの交響曲には、何か異様なところがあると思います。」
などなど。

その後、「そろそろ音を出してみましょうか」と言ってピアノの前に座り、チャイコフスキーの交響曲を1番から6番まで、聴きどころをピアノで演奏しながら解説。
休憩なしで、当初予定90分のところが終わってみれば105分、20:45まで。

小さな会場を埋めた聴衆は何人くらいでしょう?
おそらく100人強ではないかと思いますが、満場が水を打ったように静か。
素晴らしい集中力で飯守さんのピアノに聴き入っており、凝縮された、素晴らしい時間と空間でした。

飯守さんのピアノは、御本人が
「あまりうまくなくてごめんなさいね」
「ピアノを使いますかとたずねられて、ハイと返事をしたことを後悔しています。チャイコフスキーは難しいんです。」
「あ、ここ、難しい」
などと言いながら弾いておられましたが、なにせスコアを見ながらピアノで弾いて、
「ここはファゴット」
「ピッコロです」
「チェロ」
などと間合い良く解説が入るので、聴いているこちらの頭の中は補正回路が働いて、疑似オーケストラ状態。
テクニックうんぬんよりも、飯守さんの強い意志を感じさせる迫力満点のピアノを、数メートルの至近距離で。
ピアノで、さわりを聴いた…という生やさしいものではなく、引きずられ、打ちのめされて、もう満腹。
本番のツィクルスはもっと凄いでしょう。
楽しみです。

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